創造性って何だろう?この問いを考えるとき、私はよくSEED SHIPの小さな空間を思い浮かべます。3階のラウンジで、窓から見える東京の空を眺めながら、いろんな人がここで何かを生み出してきた姿が頭に浮かぶ。でも、その「何か」が生まれるときって、いつも計画通りじゃないんですよね。ある日はワークショップで絵を描くつもりが、ただおしゃべりに花が咲いて終わる。別の日は、誰かが何気なく弾いたピアノの音から、突然みんなで歌い出すなんてことも。この場所を「種を見つける場所」にしたいと思ってきた私にとって、創造性がどうやって育つのかは、ずっと気になるテーマなんです。
で、考えてみる。創造性って、種みたいなものなのかな、それとも雑草みたいなものなのかなって。種だったら、私たちが土を耕して、水をやって、光を当てて、丁寧に育てていくもの。意図があって、計画があって、ちゃんと手をかけてあげれば、きれいな花が咲く。でも、雑草だったらどうだろう?コンクリートの隙間から勝手に生えてきて、誰も水をやらなくても、風に吹かれながらしぶとく育つ。どっちが創造性に近いんだろう?
たとえば、種のイメージで考えてみると、アートの世界には確かにそういう面がある。絵画教室に通って技法を習ったり、音楽学校で理論を学んだり。計画的にスキルを積み上げて、「これが私の作品です」と胸を張れるものを作る。そういう創造性は、確かに美しい。たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチを見ると、彼がどれだけ観察と努力を重ねて、あの天才的なアイデアを生み出したかがわかる。種を植えて育てた結果が、あのモナ・リザなんだろうなって思うんです。SEED SHIPでも、ワークショップで「今日はこれを作ろう」とテーマを決めて、みんなで一つの方向に向かうとき、そんな種っぽい創造性を感じる瞬間があります。
でもね、雑草っぽい創造性も、負けてないくらい魅力的だと思うんです。たとえば、この前、SEED SHIPで起きたことを思い出してみる。ある雨の日に、お客さんが一人で来て、ただボーッと窓を見ながらコーヒーを飲んでた。そしたら、突然テーブルにあった紙に、ペンでぐしゃぐしゃって線を引いて、「これ、雨の音みたいでしょ」って笑ったんです。その線、めっちゃ雑で、何か形があるわけでもない。でも、その瞬間、その人の頭の中で雨が絵になったんだなって、私には感じられた。それって、誰も植えなかった雑草が、勝手に芽を出して、そこにいるだけで存在感を放つようなものじゃないですか。
この二つのイメージ、どっちも創造性だと思うけど、どっちが「本物」なんだろう?って考えると、答えが出ない。哲学者みたいにちょっと深く掘ってみると、たとえばジョン・デューイの言う「経験としての芸術」って考え方が頭に浮かぶ。彼は、アートって計画的に作るものじゃなくて、日常の経験の中で自然に湧き上がるものだって言ってるんですよね。雑草っぽい創造性が、それに近いのかなって思う。でも一方で、種を育てるような創造性だって、意図的に経験を積み重ねることでしか生まれないものもある。どっちも正しいし、どっちも間違ってるかもしれない。
SEED SHIPで過ごす時間の中で、私はこの二つが混ざり合ってる瞬間をよく見るんです。たとえば、あるワークショップで、みんなでキャンバスに絵を描こうって決めたとき。最初は「種」っぽく、テーマを決めて、色を選んで、真剣に筆を動かしてた。でも、途中で誰かが「もういいや!」って笑いながら絵の具をバシャって飛び散らせちゃって、そこからみんなでぐちゃぐちゃに塗り始めた。結果、最初に意図した「作品」じゃなくなったけど、なんか生き生きしたものができあがったんです。あれ、種だったのか雑草だったのか、どっちでもいいような気がした。ただ、そこにあっただけ。それが創造性の面白いところなのかもしれない。
そう考えると、創造性って、どっちかじゃなくていいのかもね。種みたいに育てたいときは育てればいいし、雑草みたいに勝手に生えてきたら、それを楽しめばいい。SEED SHIPをやってて思うのは、私がコントロールできることなんてほんの少しで、結局ここに来る人たちが自由にやってくれることが、一番大事なんだってこと。種を植えるつもりで始めたこの場所だけど、雑草みたいに予想外のものが生えてくるのも、悪くないなって最近は思うんです。
じゃあ、私にとって創造性って何かって言うと、やっぱり「生きてるもの」かな。種だろうが雑草だろうが、そこに命がある限り、それは創造性なんだと思う。東京の空の下で、小さな舟みたいなこの場所で、いろんな人がいろんな形でそれを見つけてくれたら、私はそれで満足です。あなたはどう思う?創造性って、植えるもの?それとも生えてくるもの?この哲学的な散歩、どこかで一緒に続きを歩いてみたいですね。