日常の中の創造

知らない人のスケッチが教えてくれたこと

ある静かな午後のことでした。SEED SHIPの3階にあるラウンジは、いつものように穏やかな空気に包まれていました。窓からは東京の空が見えて、遠くのビル群がぼんやりと霞んでいました。その日は特にイベントもなく、ただ数人のお客さんが思い思いに過ごしているだけ。カウンターでコーヒーを淹れながら、私はいつものように空間を見回していました。すると、隅のテーブルに置かれたナプキンが目に留まりました。そこには、誰かが描いた小さな木のスケッチがあったのです。

その絵は、特別なものではありませんでした。ボールペンでサラサラと描かれた線は、少し震えていて、木の枝は不揃い。葉っぱも適当に点で表されていて、アートの教科書に載るような洗練さとは程遠いものでした。でも、なぜかそのシンプルなスケッチに、私は目を奪われたのです。描いた人は誰だったのか。いつ描いたのか。どうしてここに置いていったのか。そんな疑問が頭を巡りましたが、答えは見つかりません。おそらく、コーヒーを飲みながら何気なく描いて、そのまま忘れて帰ったのでしょう。

最初は「ただの落書きだな」と思っただけでした。でも、そのナプキンを手に取ってじっと見ているうちに、なんだか不思議な気持ちが湧いてきました。この木の絵には、意図や目的がないように見えるのに、どこか生き生きとしている。まるでその線一本一本に、描いた人のその瞬間の息遣いが宿っているような気がしたのです。私はそれをゴミ箱に捨てる気になれず、結局カウンターの端にそっと置いておきました。

その日から、そのスケッチが頭から離れなくなりました。SEED SHIPでは、これまでいろんなワークショップや展示をしてきました。絵画、音楽、詩、コラージュ。参加者たちはそれぞれ「何かを作ろう」と意気込んでやってきます。私自身も、この場所を「クリエイティビティの種を見つける場」にしたいと思って運営してきました。でも、そのナプキンの木を見たとき、ふと気づいたんです。創造性って、こんなに無造作でいいものなのかもしれない、と。

普段、私たちは「アート」と聞くと、どうしても完成度や技術を求めてしまいます。たとえば、Wikipediaのアートのページを見ても、「芸術とは美的表現や創造的活動」と定義されていて、どこか崇高なイメージがつきまといます。ギャラリーに飾られる絵画や、コンサートホールで演奏される音楽には、明確な「形」や「意図」があって、それが評価の基準になる。でも、このナプキンのスケッチには、そんなものは一切なかった。ただそこにあるだけ。それなのに、私にはそれが「アート」に見えたんです。

その気づきは、私の中で小さな波紋を広げました。SEED SHIPを始めたとき、私は「人々が自分の可能性を見つける場所にしたい」と考えていました。でも、どこかで「ちゃんとしたものを作ること」が大事だと思い込んでいたのかもしれません。ワークショップではテーマを決めたり、道具を揃えたり、参加者に「成果」を求めたり。でも、このスケッチを見たとき、そういう「枠」が全部取っ払われたような気がしました。創造性って、こんなに自由でいいんだ。意図がなくても、技術がなくても、ただ「描きたい」という気持ちだけで十分なんだって。

それから数日後、私はそのスケッチをもう一度手に取って、じっくり眺めてみました。すると、別の視点が浮かんできました。この木を描いた人は、もしかしたら何も考えていなかったかもしれない。コーヒーを待つ間の暇つぶしだったかもしれないし、頭に浮かんだイメージを何気なく線にしただけかもしれない。でも、その無意識の行為が、私には大きな意味を持ってしまったんです。つまり、創造性って、作り手だけのものじゃない。見る側、受け取る側がどう感じるかで、その価値が変わるものなんだと。

たとえば、「レディメイド」の概念を提唱したマルセル・デュシャンは、日常の物をアートとして提示することで、観客の視点が作品を定義すると示しました。便器を「泉」と名付けて展示した彼のアイデアは、当時衝撃的だったけど、今思うと、このナプキンのスケッチにも通じるものがある。誰かが描いた「ただの木」が、私にとっては「何か特別なもの」に変わったんです。

その出来事以来、私はSEED SHIPでの時間を少し違う目で見るようになりました。たとえば、ワークショップで誰かが描いた「失敗作」を笑いものにせず、そこに何か見えない価値があるかもしれないと思うようになった。あるいは、ただおしゃべりしているだけのお客さんの会話の中に、創造性の種が隠れているかもしれないと考えるようになった。完璧さや意図を追い求めるよりも、その瞬間の「ありのまま」を受け入れることが、実はもっと大事なのかもしれない。

あのナプキンのスケッチは、今でもカウンターの隅にあります。時々、お客さんが「あ、これ何?」と聞いてくることがあって、私は笑いながら「誰かが描いた木ですよ」と答えます。でも、心の中ではこう思ってるんです。「これ、私に大事なことを教えてくれた木なんです」って。

結局、そのスケッチが教えてくれたのは、創造性って「立派なもの」じゃなくていいってこと。ナプキンに描かれた震える線一本でさえ、誰かの視点を変える力があるなら、それはもう十分「アート」なんだ。SEED SHIPに集まる人たちにも、そんな自由な気持ちで何かを作ったり感じたりしてほしい。そうやって、小さな種がどこかで芽吹くのを、私は楽しみに見守っていきたいんです。

あの知らない人が残していった木の絵は、今でも私の視点を変え続けています。あなたにも、そんな小さな「何か」が見つかる瞬間があるといいなと思います。